医師の裁量権と患者の自己決定権
医師の裁量権と患者の自己決定権
インフォームド・コンセント(Informed Consent)の原則は、一般に「説明と同意」とか「十分な説明を受けたうえでの同意」と訳されている。
インフォームド・コンセントの法的原則は医師および医療従事者から診療、検査、投薬、手術その他の医療行為の説明を受けたうえで、自由な意思に基づき、医療行為に「同意」したり、あるいは拒否したりすることができる、という患者の「自己決定権」を意味する。さらに、患者が「自己決定権」を行使できるようにするための前提となる法的、倫理的「説明義務」が医師に果たされることを意味する。
インフォームド・コンセントの倫理的原則は、患者の「自己決定」としての「人格的・手段的価値」と「生命・健康の価値」との両方の「価値」を促進し、実現するために、患者と医師の相互の人格の尊重に基づく対話をとおして医療における「協同の意思決定」をすることを意味する。この 倫理的原則は医師の医学的判断に基づく患者のための「最善の利益」を義務づける「恩恵(善行)の倫理原則」と、患者が生活の目標や価値観に基づいて自己の生命・健康の「価値」について「最善の利益」のために自分の意思で決定する「自己決定(自律性)の尊重の倫理原則」との一致、合意、調整をとることを意味する。
最も困難な問題が医師の「裁量権」と患者の「自己決定権」の関係の問題である。医療においてインフォームド・コンセントの原則が定着するならば、多くの場合は、患者の自己決定権が医師の裁量権と両立し、一致すると考えられる。どんな場合に医師の「裁量権」が患者の「自己決定権」に優先するのか。また患者の「自己決定権」が最終的に優先するとはどんな場合か。また患者の「自己決定権」や「知る権利」に対応する医師の「説明義務」はどこまであるのか。医師の「説明義務」は医師の裁量権によって軽減されたり、免除されるのはどのような場合か。医師の「裁量権」と患者の「自己決定権」が衝突・対立するのはどのような場合か。こうした問題を念頭におきながら、医師の「裁量権」と「患者の自� ��決定権」の関係について、考えてみることにする。
裁量権
医師の「裁量権」とか「裁量」という言葉は、医療過誤の争点の中で医療水準を基準にして事後的に医療行為の「注意義務違反」の有無を判定し、法的責任を問えるか問えないかの限界を意味する法的な概念である。診断や治療法を含めた医療行為が医師の「裁量権」の範囲であるということは、医療水準に基づいて注意義務違反がなかったことを意味する概念である。医療行為が「裁量権」の範囲以内であれば、法が介すべきではなく、医師の法的責任は問われないという意味である。
逆に、患者の「承諾・同意」を得た医療行為であっても、医療水準を基準にして注意義務違反が存在し、患者の生命・身体に重大な損害が生じれば、医師の「裁量権」の逸脱として違法行為となる。民事上、刑事上の責任が問われる。従って医師は医療水準を基準にした「注意義務」の範囲以内で、「裁量権」を持っていることになる。その根拠は、 医師は様々な法的義務を果たされているからである。
例えば、医師は医師免許によって医療行為を行う資格を持っている。同時に診療義務(医師法19条1項)、保健指導の義務(医師法23条)、管理上の義務等、注意義務などの義務によって法的責任を問われることにある。医師が職責として裁量権を行使するのは当然の慣行であった。
倫理的には、この「裁量権」は、患者の生命・健康の維持・保護・尊重という「恩恵の原則」に基づく倫理的義務と責任と表裏一体となった道徳的権利という意味を持っている。医師は自己の倫理観と価値観に従って医療を行う自己決定(自律性)持つという意味で、「自由権」を持っている。本文では、医師の「裁量(裁量権)」という場合、医師が診断し、医療水準に基づき、「注意義務」の範囲内で治療方法についてその効果と副作用、患者への利益と危険性とを比較・考量して治療法を選択する「裁量権」という意味と、医師が倫理的義務と責任を担う自律的的な主体としてとして「自由権」を持っているという意味で用いられる。それは、医師の「義務と責任」という規範意識と表裏一体となっている「権利� ��概念である。
医師の「裁量権」というとき、医師の法的、倫理的「義務」と「責任」を担う主体として医師によって意識されている。従って表現形式としては、医師の「裁量権」は患者の「生命・健康の価値」の「維持・保護義務」、「治療義務」として主張される。
こうした医師の「自由裁量権」と患者の「自己決定権」の相互尊重・承認と人格の相互承認こそが、医師と患者の信頼関係の基礎である。
自己決定権
医師の「裁量権」に対して、先に述べたように患者の「自己決定権」は医師の説明や助言を受けて、医療行為を承諾、選択、拒否する権利である。わが国では、この権利が患者の権利基本法として実定法として制度的に確定しているわけではないが、この権利は憲法13条「すべての国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」を法的根拠にしている。患者の「自己決定権」は憲法上の基本的人権を意味している。
倫理的には、一般的に、他人の権利を侵害したり、迷惑をかけたりしないかぎり、患者の「自己決定(自律性)」とは、 自己自身の目的と価値観に従って、自分が善いと考える「価値」を選択、決定、実現することを意味する。医療における患者の「自己決定」とは、自己の生活、人生の目的に重大な影響を与える、生命・身体に関する医療において、自己の価値観に従って、最善と思える決定をすることを意味する。患者の自己決定(自律性)が尊重されることは、人格が尊重されることを意味する。
もともと、医療行為は1)医学的適応 2)医療技術の正当性、3)同意原則の三つの要件によって適法とされる。この意味での同意はインフォームド・コンセント法理が展開される以前には、患者の自己決定権の行使の前提となる「説明義務」に基づく「承諾・同意」ではなくて、医師の「裁量権」を前提にした医療行為の違法性の阻却と、事前に法的責任を免責するための「承諾・同意」であった。それでも患者の「同意」のない医療行為は、医学的適応や医療技術が正当であっても、専断的医療行為として違法とみなされてきた。
その後、インフォームド・コンセントの原則の法理の展開とともに、多くの判例で、医師に裁量権があるとしながらも、身体への侵襲を伴う手術や重大な結果を伴う危険性のある医療行為については、原則として医療行為を承諾・同意するか、拒否するかを最終的に決定する「自己決定権」が患者にあると承認されるようになってきた。この患者の「自己決定権」を確保し、保障するために医師に「説明義務」があるという「説明原則」が確立されるようになってきた。
浜の子不安で日
原則として、医師の「裁量権」は患者の「自己決定権」行使としての「同意・承諾」によって裁量権の行使の権限が与えられる。患者が「自己決定権」の行使として医療行為にたいして「承諾・同意」の拒否する場合は、医師の「裁量権」の行使の権限は存在しないことになる。 原則として、患者の生命・健康の維持・保護としての治療義務に基づく医師の「裁量権」は、正当な理由や緊急状態の場合以外は、自己の生命・身体にたいする「処分権」としての患者の「自己決定権」を越えることはできなし、また優先することはない。
たとえ医学的適応があっても、患者の自己決定権の行使として拒否の意思が明白な場合は、医師の「裁量権」より患者の「自己決定権」が優先することは判例でも確立されている。だが、問題なのは、患者の自己決定権といっても医療の「協同意思決定」にどの程度参加し、尊重されるかということである。医療体制の慣行、医師の人権感覚、患者の権利意識、意思決定能力に依存することになる。
第一の形態
医師の「裁量権」と患者の「自己決定権」の関係の第一の形態は次のような場合である。
実際には、医療において多くの場合、慢性的病気の悪化、末期状態の病気の場合に、患者自身が自分の病気によって自己の人生の目標や価値観に従って生きることが困難であるだけでなく、生理的、神経的機能の次元での障害と苦痛とによって、基本的な日常生活すら困難をきたすので、生命・健康の「価値」を第一義的なものとせざるをえない。従って、患者は医師の専門的、医学的判断に基づく診断、検査、治療法の説明を聞いて、「承諾・同意」する場合がほとんどである。患者の「承諾」と言っても、実質的には医師の裁量に委ねられているといってよい。
こうした場合は、医師の「裁量権」と患者の「自己決定権」の相互承認により、一応、形式的には、「承諾・同意」が行われ、医師は、「裁量権」を行使したことになり、患者も「自己決定権」を行使したことになる。
だが、生命に危険な病気によっては、医学的適応に対して治療法が限定される場合は、患者の「自己決定権」といっても、選択の幅はほとんどないので、文字どおり「承諾」する以外にない。患者が「自己決定権」の行使として医師の奨める治療を拒否しても、他の医師や病院で治療が可能であるなら何の問題もない。
しかし、重傷の激痛、長期にわたる慢性の病気、治る見込みのない病気の患者は、失意と絶望の中で日々生き、自己の負の存在を維持し、希望を見いだすのに全精神的エネルギーを消耗する。こうした患者にとって自己決定権の行使は、きわめて困難である。ところが、こうした患者は「植物状態」、重い精神病による「無能力者」ではない。
しかも、こうした重大な病気や治る見込みの少ないない病気で苦しむ患者ほど病気の苦悩から脱却し、なんとしても病気を治したいと切望する。患者自身が何度も手術を切望し、手術願望者(ポリサージャリー)にすらなりえる。ところが、「意思決定能力」の低下した末期状態にある患者は、一見して自己決定の余地がないように思われるが、きわめて重要な自己決定をしなければならない客観的状況が存在する。
積極的に、実験的治療を受けるのか、ターミナル・ケアやホスピス・ケアとしての看護を中心にした残された生を充足させるのか、また臨床試験の申し出を受けるのか、それとも断るのかを決定ししにくい状況が存在する。また医師としても不治の病気を治療しようとする英雄的な努力を試みようとする。患者は病気の回復のための治療と信じて、簡単に臨床試験や実験的治療の対象になってしまうことになる。
従って、医療において主体的に「自己決定権」を行使するのが困難な患者の場合には、医療側が患者の「自己決定権」を保護し、擁護し、保障する制度を十分に機能させなければならない。特に、臨床試験や実験的的治療の場合は、医療を担う施設が「治験委員会」や「倫理委員会」設置し、インフォームド・コンセントの原則に基づき 制度的に 患者の「自己決定権」を擁護し、保障する目的と機能をもたなければならない。 ところが、患者の人権や権利という視点が欠落したり、委員会構成員
のあり方如何によっては、患者の「自己決定権」の擁護として機能するよりは、これらの機関は学会に発表したり、学術雑誌に論文を発表するための形式的な手続き機関になる危険がないわけではない。
第2の形態―理想の形態―
医師の「裁量権」と患者の「自己決定権」の関係の第二の形態は、両者の権利の相互調整・制限・制約である。インフォームド・コンセントの原則が理想的に機能している形態である。医師は患者の全人的医療を心がけ、患者もしっかりした人生観や価値観を持っている場合である。「協同意思決定」における医師の役割は、診察、検査、病名を含めた診断の結果について説明する。
さらに、医師は専門的、医学的判断に基づいて、患者の生命・健康の「価値」の保護・維持・増進の擁護者としてについて「最善の利益」と考える治療法、その予後と危険性について説明し、提案し、助言する。また、医師はその他の治療法、治療を受けなかった場合の予後、身体へ侵襲を伴う手術と手術以外の治療法、手術を受けた場合の利益と危険性、後遺症の説明、手術でも、保存的手術や全摘出手術についって、また投薬についても、副作用の説明をする。医師は医学的適正の許す限り、患者自身が自己の生活条件や価値観に基づいて可能な限り自己決定できるように援助する。
患者の役割は、自己の心身の異常感、痛み、苦痛、機能上の困難について正確に医師に説明し、病状の正確な診断とその結果について知ることである。
特に、身体への侵襲を伴う手術の場合に、その手術によって得られる利益と自己の生活に影響を及ぼす後遺症や合併症を、自己の生活条件や今後の生活目標・価値観に照らして比較・考量し、「最善の利益」と考えることや希望していることを医師に語り、伝えることである。多くの患者を抱えている医師から嫌がれるかもしれないが、自分が納得いくまで説明を求めることである。
患者の苦しみに鋭敏な感受生を持った良心的な医師であるなら、患者の生命・健康の維持・回復のために医学的判断に基づいて、患者の「利益」と「危険性」(害・弊害)とを比較・考量して、治療法を考えるはずである。さらに、患者との対話を通して患者の生活目標や価値観に基づく自己決定を、医学的適正の許す範囲で最大限に尊重するとき、患者も自己の健康の価値と他の価値とを比較・考量をしたうえで同意することになる。
患者と医師の相互信頼に基づく対話(コミュニーション)こそ、まさに、医師が患者の病気に対する自己の経験と技術に基づく医学的判断と患者の価値判断・生き方・生活条件に考慮して治療法や方針を提案し、推奨する過程であり、患者自身も自己の価値観や生き方に照らして、治療法の選択をする過程である。
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パートナーシップとしての「協同意思決定」過程こそが、患者と医師との率直な「対話」の過程であり、医師の専門的、医学的判断に基づく患者の「最善の利益」と患者の価値観に基づく「最善の利益」との合意と一致を求める過程なのである。法的には、「協同意思決定」、すなわち合意と一致は、患者の「自己決定権」と医師の「裁量権」の相互承認であり、相互行使である。対話の過程の中で、両者の権利の調整、制限・制約が行われる。
倫理的には、医師が患者の「最善の利益」のために義務づけられる「恩恵(善行)の倫理原則」と、患者が価値観に基づいて「最善の利益」を自己決定する「自己決定(自律性)尊重の倫理原則」とが人格の相互尊重に基づいて、対話をとおして調整され、制約・制限される。
医師が専門的、医学的判断に基づいて判断する患者のための「最善の利益」と患者が自分の生活形態や条件、価値観に基づいて判断する「最善の利益」とが一致しなくても、対話をとおして医師は医学的水準や医学的適正の範囲で患者の治療法の選択を認め、その限りで医師の「裁量権」が制約されると考えられる。
また、患者の自己決定が、患者自身の生命・健康の「価値」の保護、維持にとって明らかに害となる場合には、患者の生命・健康の擁護者として、患者の自己決定を変更するように忠告し、助言する。患者の「自己決定権」が制約されると考えられる。インフォームド・コンセントの原則の例外を除いて、最終的には患者の「自己決定権」が尊重される。
第3の形態 ―例外としての裁量権の優位―
医師と「裁量権」と患者の「自己決定権」の関係の第三の形態は、インフォームド・コンセントの原則の例外としての形態である。医師の裁量権が医学的水準という制約があるのは当然だが、医師の「裁量権」が患者の「自己決定権」に優先する場合である。患者が「緊急状態」で、本人や近親者から同意を得る時間的余裕のなかった場合である。インフォームド・コンセントの原則の例外ではあるが、緊急状態の医療は、医療の重要な役割を担っている。この医療は患者にとっても多大な利益となる。患者の病状が急激に悪化して、生命・身体に危険が切迫し、救命治療・応急処置が必要の場合に、医師の裁量権が優先するのは当然の事である。
さらに、患者の「同意」を必要としないという点では、制定法による強制治療・入院措置も患者の「自己決定権」よりも医師の「裁量権」が優先すると考えることができる。
例えば、優生保護法(四条)によれば、遺伝性精神分裂病者、性欲異常の遺伝性精神病者に対して、医師の申請により、都道府県優生保護審査会の決定に基づき、同意なしに優生手術をすることができる。精神保健法(二九条)によれば、都道府県知事の権限により、精神障害者に対して医療および保護のために入院させなければ、その精神障害のために自身を傷つけ、あるいは他人に害を及ぼす恐れがあると認めたときは、強制医入院措置をとることができる。伝染予防法(七条)よってコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス等の伝染病患者の強制入院措置をとることができる。
第4の形態―衝突とジレンマー
医師の「裁量権」と患者の「自己決定権」の第四の形態は、両者の権利、すなわち医師の救命・治療義務と一体となった「裁量権」と患者の「自己決定権」とが対立し、衝突する場合である。
インフォームド・コンセントの原則によれば、患者の自己決定権には、同意する権利だけでなくて、治療を拒否する権利も含んでいる。一般に医師の裁量権と患者の自己決定権の衝突は、患者の医療拒否という形で現れる。患者が自己決定権の行使として自覚しているたわけではないが、自己防衛策として実質的に治療拒否をすることは、日常の医療でしばしば見られることである。本来なら、医療の側で、十分に説明し、医学的適正の範囲で可能な限り、患者の人権と自己決定権を尊重する医療の体制にあるならば、患者が医師、医療に対する不信の結果として医師・医療を拒否することは少なくなるはずである。
また、 可能な治療法の選択肢が複数ある場合に、医師がそのうちの一つの治療法が最善と考えて、患者が別の治療法を最善と考える場合には、医師の裁量権と患者の自己決定権が衝突したことになり、患者としては他の医師に相談し、自分の希望にそった治療をしてくれる医師を苦労しても、見つける努力をしなければならない。
医師の裁量権は、患者の生命、健康の維持・保護のための義務と責任と表裏一体になっているので、医師の裁量権と患者の自己決定権との衝突・対立は、生命の尊厳に基づく、医師の治療義務と患者の自己決定権との対立・衝突としてとらえられる。倫理的には、生命を維持し、保護する責任と義務に基づく「恩恵(善行)」の倫理原則と「自己決定(自律性)の尊重」の倫理原則との衝突である。
こうした医師の治療義務、救命義務に基づく医師の「裁量権」と患者の「自己決定権」との衝突と対立は、エホバの証人による「宗教上の理由の輸血拒否」、患者の延命治療を拒否する「尊厳死」の要求に典型的な形で現れる。前者は、患者の信仰の自由権、「自己決定権」と、輸血をしなければ、生命の危険を伴う生命、健康の「価値」を擁護する医師の「裁量権」との衝突である。後者は、医師の生命維持・保護という医師の責務としての「裁量権」と、生命維持装置の取り外しを含めて、延命治療を拒否し、人間の尊厳に値する自然の死を選択する「自己決定権との相克であり、ジレンマである。
宗教上の理由の輸血拒否
日本医師会見解は、輸血を拒否するが、治療を求める患者の意思を無視しても医師の「裁量権」を貫く立場をとっている。
@ 本人の強い信念と家族一致の要求で拒否された場合でも、輸血拒否を無視して、輸血をしたために法的に責められることはあり得ない。逆に、「拒否」したがって輸血を実施せず、そのために死亡した場合に法的に責任を問われないとはいいきれない。
A そのほかの場合は、拒否があっても必要と認めれば医師は当然輸 血を施行すべきである(高橋勝好「宗教による輸血拒否をめぐる法律問題―医師のとるべき態度」日母医報一月一日号、1985年)。
この見解によれば、医師は基本的には患者の意思を尊重して輸血をしない治療を拒否し、医師の「裁量権」の制限すら認めようとしないことを意味する。
超音波techianどのmajar該当ありませんか
例外として、緊急性があり、輸血をしなければ生命に危険がある場合は、患者の意思を無視しても、輸血をすることは医師の裁量として求められるべきである。それは単に患者の生命の維持・保護のための医師の裁量としてだけではなく、患者以外の第三者の「利益」を考慮しなければならない。患者が妊娠している場合の胎児の権利、患者が養育義務のある幼児や子供を持っている場合である。
しかし、実際には、医療機関によって若干異なってはいるが、患者の意思を尊重して、輸血しないで治療する傾向が見られてきている。
判断能力のある成人、未成年でも、一八才以上なら、患者本人の意思を尊重して輸血をしないで治療すべきである。説得にどうしても同意しなければ、輸血しないことによって起こる結果に対して異議を申し立てない旨を署名文書で得て、治療すべきである。また医師は患者を拒否するのではなくて、可能な限り、輸血しないで治療すべきである。患者が意識の無い場合でも、輸血拒否の意思表明の文書があれば、意思が尊重されるべきである。
輸血拒否の問題は、医師の裁量権と患者の「自己決定権」との衝突が医療側の治療拒否として解決される限り、インフォームド・コンセントの原則としての患者の自己決定権の尊重は無視されることになる。患者の「自己決定権」の尊重として輸血なしの治療を原則として認めていくべきである。
尊厳死―生命維持治療の拒否―
現代の医療は生命維持装置と治療の急速な進歩をもたらし、患者の生命を救い、維持できるようになった。その反面、合理的な医学的判断によって明らかに不治で、死期の迫っている患者が、機械的、人為的に、
死期を延長されるようになった。わが国でも、終末期における延命治療の拒否を求める尊厳死の問題が論じられ、日本尊厳死協会の会員が6万5千人を越えたと言われる。尊厳死は終末期患者の自己決定権決定権としての延命治療を拒否し、人間としての尊厳を保持し、自然の死を全うしようとするものである。
患者が終末期の説明を受け、自己決定権の行使として生命維持治療、延命治療を拒否して、Pその意思が尊重され、人間尊厳にふさわしい自然の死を選択できれば問題はない。実際には、医師の生命維持義務、救命義務としての「裁量権」と、患者の「生命の質」の選択としての「自己決定権」との衝突である。
しかし、末期患者に対するインフォームド・コンセントの原則が確立していないことが、患者の自己決定を困難にしている。癌の告知もされず、最後まで延命治療を受け続ける患者も多い。さらに、延命治療の拒否としての「尊厳死」が「自殺」、「自殺幇助」、「積極的安楽死」との相違が明確にされなければならない。死期の迫った、医学的に回復の見込みのない患者の機械的、人為的延命・生命維持の停止、中止が患者の生命尊厳を犯し、死を招く行為として考えるべきではなくて、死を自然の過程に委ね、人間の尊厳を保持し、生命の質を確保する行為とみなすべきである。
ただし、回復不可能な末期患者で、意思決定能力があれば、インフォームド・コンセントの原則が成立するが、多くの患者の場合、意思決定能力がなくなるか、ほとんど低下しているのであるから、「リビング・ウイル」(事前の意思表示)が患者の意思として尊重されるべきである。
意識を喪失した、無能力な患者の尊厳死は、末期医療における延命拒否の 「リビング・ウイル」(事前の意思表示)があれば、代行決定による無能力状態の患者の「自己決定権」の行使が医師の同意を得て可能である。しかし、そうした患者の事前の意思の確認もできず、「リビング・ウイル」もなければ、患者の自己決定権としての「尊厳死」の「権利」は、近親者や医師の「代行決定」によよって患者を「死なせる権利」に転化する恐れがあり、争点となってくる。
患者の意思決定能力
インフォームド・コンセントの原則は、「正常な判断能力ある成人の患者」を対象にしている。患者の「自己決定権」の行使の前提となる「判断能力」または「意思決定能力」の有無は、インフォームド・コンセントの成立要件として重要である。インフォームド・コンセントが法的、倫理的に有効に成立する要件(必要条件)として(1)医師の説明、(2)患者の意思決定能力、(3)自由意思による同意の任意性の三つの要件が挙げられる。患者の「意思決定能力」の有無は、自己決定権が保障され、尊重される患者と、自己決定の効力があるとみなられず、近親者、代理権者に決定が委ねられる患者とを分ける境界を設定することになる。
従って、「意思決定能力」の判定基準を何に求めるかによって、医師の「裁量権」と患者の「自己決定権」の比重が異なってくる。倫理的には、患者の「自己決定(自律性)の尊重の原理」と患者の医学的な「最善の利益」のための「恩恵(善行)の原則」との比重が異なってくる。患者の「意思決定能力」の判定は「自己決定権」、「自己決定(自律性)尊重の倫理原則」が制約・制限される条件となる。また、それは医師の治療法の選択、説明についての「裁量権」を正当化する根拠ともなるのである。
一般に「能力」の有無の判定は、目的や課題に応じて様々である。人は或る目的や課題に対して能力があっても、他の目的や課題にたして能力がなかったりする。「能力」はきわめて相対的なものである。「法的責任能力」、「法的資格能力」、「身体的運動能力」、「心理的・精神的能力」等が複雑に絡み合っている。
法的には、一般に成人は刑法に定める心神喪失者、心神耗弱者でない限り、「意思決定能力」、「判断能力」があると仮定されている。だからといって、「法的責任無能力者」以外は医療において「意思決定能力」があると見なすことは、当然、臨床の現実を無視することになる。
少なくとも、医療における患者の「意思決定能力」は、(1)意思疎通能力、(2)情報としての「説明」を理解する能力(3)治療選択を評価し、推理し、熟慮する能力、(4)自己にとって「最善の利益」を評価するための価値観や目標を持つ能力が求められる。
これらの四つ能力が十分にあり、患者の意思決定能力が問題にならなければ、インフォームド・コンセントの原則の成立要件の一つを満たしているのは当然である。従って、未成年であっても「意思決定能力」が十分にあれば、法的にも、その能力があると見なされる。児童や、青少年でも、受ける治療の意味と結果について理解する能力があれば、法的には、近親者の同意が必要であるが、倫理的には「説明義務」がある。
ところが、実際の患者の意思決定能力には、十分な能力から様々な程度の能力を経て無能力までの連続的な段階がある。同じ患者自体が病状によって「意思決定能力」は変動する。一般に患者の自己決定権の行使、自己決定(自律性)の尊重は、患者の「意思決定能力」に応じて、単なる「承諾」から自己の価値観に基づく「ライフ・スタイルとしての治療法の選択」に至るまでの段階、程度が存在せざるをえない。何故なら、重病、薬物中毒、欝等の病気そのものによっても、知能によっても、情報、説明を理解する能力が低下し、「意思決定能力」は低下するからである。
例えば、植物状態、昏睡状態、重度の痴呆、判断力の無い幼児、重度の精神病等の患者のように、明白に「意思決定能力」が無くて、「無能力」であるならば、インフォームド・コンセントの原則は排除される。医療における「意思決定」は医療の慣例として近親者、後見人等の法定代理人によって行われることになる。 インフォームド・コンセントの原則は「無能力状態の患者」の意思を代行する近親者、後見人と医師との「協同意思決定」として行われる。だが、近親者は患者の「推定的意思」に基づいて意思を代行することになる。近親者が代行することは、医療の慣行としても、法的にも、患者の「最善の利益」に合致しているかぎり問題はない。
患者の「意思決定能力」の有無と、その程度の判定基準は難しい問題である。「意思決定能力」の判定基準は、最低限の判定基準から最も厳格な相当程度の判断力を求める判定基準がありえうる。判定基準が最低限度であるならば、患者の「意思決定能力」は、自己決定権を代理権者に委ねる意思決定無能力との境界になり、患者の自己決定はきわめて限られたものとなる。もしも、患者自身が表明した欲求や選択をすべて自己決定として尊重したとすれば、患者の生命・健康の「価値」が確保、促進されない恐れが生じてくる。このような患者の自己決定が少しも患者自身の生命・健康の価値の増大・促進しなければ、患者の自己決定そのものが不合理とみなされなければならない。患者の生命・健康の「価値」の保護に� �点がおかれる。こうした「意思決定無能力」な患者との境界にある患者の場合は、ほとんど危険性がなく、きわめて簡単なことは患者に能力 に応じて説明し、「承諾」を得るにしても、重大な危険性について高度な判断力、理解能力を必要とする場合は、実質的に「意思決定」は近親者や代理者に代行される。
だが、「意思決定能力」の判定基準を厳格にすれば、医師の説明を理解し、同意や拒否の意味を理解できる「意思決定能力」のある患者の「自己決定権」が侵害され、尊重されないことになる。
患者は説明しても理解できないとか、病気で選択する能力は低下しているので、自己決定など無理であると言うことによって、患者の自己決定権を実質的に認めないことになる。患者の意思決定能力に程度の差があることは歴然たる事実である。また病気という医学的条件と心理的条件によって患者の「意思決定が困難な場合もあることも事実である。
患者がある程度「意思決定能力」があるにもかかわらず、判定基準が厳格に設定され、その能力が低くみなされるならば、また医師が提案し、勧めた治療を拒否したり、承諾しなかったり場合に「判断力」がないとみなられ、医師は裁量として病名を含めて、説明も自由にコントロールすることになり、インフォームド・コンセントの原則は無いものに等しいものになってしまうことになる。
例えば、癌の告知のように「判断力のある患者」に対しても癌の告知をせず、実質的に能力の無い患者と同じような扱いをすることがある。家族だけに真実が語られ、本人には知らせるなというのでは、家族にとっても、患者本人にとっても心の負担であり、患者の不安を増長させるだけである。
患者の「意思決定能力」の判定基準は、医師の提案し、勧める医療について説明を聞き、患者が自己決定を行う「意思決定」過程そのものによって判定することになる。医師が提案し、勧める医療に全面的に依存し、患者の選択が実際に医師の勧める選択であるならば、患者の意思決定能力の判定基準が低くても、問題はない。患者自身の自己決定としての選択がンフォームド・コンセントの原則に従って行われ、患者の選択が患者の生命・健康の維持・保護と大まかに一致していれば、普通の「意思決定能力」があることを意味する。
治療の拒否、あるいは患者の選択した治療によって患者自身の生命・健康を著しく害する場合は、「意思決定能力」を厳格に判定し、場合によっては「意思決定能力」そのものを疑わなければならないのは当然である。
だが、患者が、医学的に適正な治療の範囲で、医師が最善であると見なす治療を拒否し、他の治療法を選択したとしても、無能力の証拠にはならない。むしろ、治療拒否の権利は、インフォームド・コンセントの原則の「自己決定権」そのものである。
「意思決定能力」は必ずしも、患者の「自己決定権」、あるいは「自己決定」の行使に対応するわけではない。「意思決定能力」、「同意能力」があっても、医師が医療行為は医師の裁量であると確信し、医療における「意思決定能力」をきわめて低く評価する場合には、情報や説明がなく、自己決定できない場合もあり、強迫、強制、巧妙な操作等によっても自律的な自己決定ができない場合がある。患者の「意思決定能力」を信頼し、医学の専門用語並べることでなく、できる限り、平易に、分かりやすく説明し、患者の自己決定を尊重し、促進することは専門家としての医師の義務である。
説明義務と医師の裁量
説明義務
医師の患者に対する「説明義務」の法的根拠は、診療契約条の債務として準委任契約(民法六五六条)に基づく、善良な管理者の注意義務(民法六四四条)、受任者の報告義務(民法六四五条)、さらに医師法二三条「療養等の指導義務」に求められている。あるいは、それは不法行為(民法七0九条)の「注意義務」として説明されている。
一般に、説明義務�F.Childress,"Orinciples of Biomedical
Ethics,Oxford,"1989.
22・阿南成一『安楽死』弘文堂法学選書1、1985年。
杉田 勇平山正実編『インフォームド・コンセント』北樹出版、
40−58頁所収
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